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「スザク様、これをお持ちください」 手を差し出すと、触り慣れた柄が手に触れた。丸みのあるなめらかな曲線は、紛れも無く傘の柄だった。柄を僕が、その先を咲世子さんが持つ形で歩くらしい。手を繋いで歩けば早いのだが、彼女はそれを許してはくれない。一定の距離を保ち、初めて歩くこの荒れ果てた地下空間でも周りの空気を感じて歩けと言うのだ。 なんて無茶なと言いたいが、彼女のスパルタは今に始まったことではないし、それが可能だと判断した上でやっているはずだから、彼女の指示に従い柄を握り歩いた。 地下鉄の線路を、先へ先へと歩く。 新宿を離れ、同じく再開発がされていない池袋の方へ向かうのだという。 今までは目の見えない僕の道案内役はC.C.で、人目のある場所、特に夫婦役を演じているときは腕を組んだり手を繋いだりしていたが、それ以外の時は彼女の声と気配と靴音を頼りに歩いていた。そんな環境に慣れたつもりでいたが、いつもと案内役が違うだけで、この暗闇に押しつぶされそうなほどの不安が胸の内に広がっていった。 地下の暗闇では、視力のある咲世子でも歩くのは大変なのだろう、時折躓いていた。そんな瓦礫だらけで歩きにくい中を、彼女に引かれ、彼女の靴音を頼りに歩き続ける。 人気のないこの場所では、僅かな靴音でも反響してしまう。 それでなくてもわかりにくい咲世子の足音が更にわかりにくくなる。 だからなのか、不安はますます大きくなっていった。 結論から言うならば、考えが甘かったのだろう。 確かにC.C.の予想通り、追手の大半は彼女へ向かっていった。 だから地下を進む僕達は、電気が通っていない暗い通路を、懐中電灯の明かりと咲世子の記憶を頼りに、ゼロであったルルーシュが用意した逃走経路に沿って、誰にも邪魔されず、誰にも追われること無く歩き進めることが出来た。 途中までは。 考えてみれば当たり前なのだ。全員が全員、確率の高い場所を探すわけではない。中には大穴を狙う者もいる。この広い地下空間で息を殺し、逃走者が来るのを待っていた者がいても、何もおかしくはなかったのだ。 東新宿を過ぎた辺りで、咲世子は足を止めた。間違いなく、何兄警戒している様子から、見えないことは解っていても無意識に辺りを見回し気配を探った。 聞こえるのは、二人分の呼吸音。 他には何も聞こえないが、彼女は静かに辺りを伺ったあと、傘を引いてゆっくりと移動を始めた。足音を殺し少し歩いた先で体を低くし、足を止めた。傍にあった大きな瓦礫の後ろに隠れたのだと、いまだ警戒している咲世子は小さな声で言った。 「恐らく、この奥に何者かが潜んでおります。スザク様はできるだけ音を立てず、ここに隠れていてください」 「・・・どうするつもりですか?」 「確認してまいります。もし、何事もなければ迎えに参りますが、私が戻らなかった時は1時間ほどここに隠れていてください。そしてその後、いま来た道を引き返してください。大丈夫です、スザク様でしたらお一人でもこの通路を歩くことが出来ます」 新宿に戻るのは危険ではあるが、これだけ時間が経ったのなら、この先に進むよりは安全かもしれない。この先に潜む者より、カグヤの手の者のほうが安全だろう。今はゼロの正体よりも、ゼロであるスザクの命を最優先で守るべきだ。 「・・・いえ、一緒に行きます」 彼女がここまで言うということは、それほどの何かを感じているということだろう。危険だと解っている場所に、女性一人向かわせる訳にはいかない。 「・・・スザク様、失礼を承知で申し上げますが、そのお体では足手まといでございます」 少しためらった後はっきりといわれた言葉に否定の声を上げることは出来なかった。間違いなく、足手まといにしかならない。彼女は武術に長けた人だ。失明した人間が自分の身を守る程度動けるようになったとしてもたかが知れている。共に連れて闘うなど自殺行為。彼女が戻れないということは、それだけの相手ということなのだから、スザクがいれば勝率は確実に落ちるだろう。 目が見えていれば、一緒に戦うことができるのに。 いや、そもそも見えていたならこんな事にはなっていない。 悔しさのあまり唇を噛みしめていると、咲世子は「大丈夫でございます」と、穏やかな声で言った。 「私の気のせいかもしれません。スザク様もお疲れでしょう、ここで休んでいてください」 スザクを安心させるように言うと、彼女はこの場を後にした。 彼女の足音が、だんだん遠ざかっていく。 置いて行かれた。 ここにいるのは自分一人だけ。 置いて行かれたのだ。 また。 ああ、また手の届かないところに行ってしまう。 孤独からか、恐怖からか、絶望からか。 心の奥がざわざわと騒ぎ出し、置いて行かれたという思いが膨れ上がっていった。 君は僕をここに置いていくんだね。 遠退く足音を聞きながら、僕はどきりと心臓を跳ね上がらせた。 頬が濡れている。 泣いているのだ、自分は。 まるで子供だなと思わず自嘲した。 膝を抱え、顔を伏せ、自分の情けなさに思わず笑った。 置いて行かれて、寂しくて泣くなんて。 まるでもう、戻ってこないようじゃないか。 何事もなければ戻ってくると、言っていたじゃないか。 もし何かあっても、咲世子には戦う力があるのだから。 ざわりと、背筋がふるえ、反射的に顔を上げた。 ざわり、ざわりと嫌な予感ばかりが膨れ上がる。 足音は遠のき、もう耳には届かない。 そもそも彼女の足音は・・・ 遠くで、声が聞こえた。 本当に誰かがいたのだと、全身が慄いた。 賭けるような足音が聞こえる。 それも一人二人ではない、複数の足音だ。 黒髪の女が来たと大きな声で叫んだ男と、金属音。 ゼロはどこだと叫ぶ声、女がどうしてここにいると問い詰める声、その後しばらく間が空き、男たちの怒声と発砲音。 その音を耳にした途端、頭の中は真っ白になり、気がつけば走りだしていた。 怒鳴り声、叫ぶような声に下卑た笑い声、威嚇の銃声、多くの足音、彼女の声。 それらがまるで灯火のように進むべき道を指し示し、瓦礫だらけの暗闇の中、傘一本を杖代わりにひたすら走り続けた。だが、足元に何があるかわからない恐怖と、触れた瓦礫を避ける動作に時間がかかりすぎていた。このままでは手遅れになってしまうと焦りばかりが心を満たし、僕は思わず叫んでいた。 このままでは連れて行かれてしまう。 それは駄目だ、許さない。 絶対に。 「お前たちは私に用があるのだろう!その者から手を離せ!」 声が届いたのだろう、「来てはいけません!!」と叫ぶ声が聞こえたが、それをかき消すほど大きな男たちの声と足音があたりに響いた。 良かった、間に合った。 安堵したその瞬間、懐かしい声が聞こえてきた。 『生きろ!』 両目に懐かしい熱を感じる。 これは、彼が残したギアスの呪い。 男たちがこちらに銃口を向けたのだ。 この目が見えなくても、この呪いは死を感知し、力を発動させたのだ。 だから理解った。 彼らの目的はゼロの保護でも捕縛でもなく、殺害なのだと。 ゼロが死ねば、成り代わることが出来ると言っていたじゃないか。まさに彼らはそのためにゼロを探していたのだ。もし殺すことが不可能だったとしても、ゼロの正体を世間に発表されたくなければ、次のゼロは自分だと認めろとでも言うのかもしれない。 『生きろ!』 再び声が聞こえた。 その声に従い、前を進むこの体はこちらの意識反して停止し、いま来た道を引き返そうとし始める。だが、それを意志の力でねじ伏せ、前へ前へと足を進めた。 暗闇の中、男たちの声と、慣れ親しんだ銃火器の音が耳に響き、彼女の声が、僕を止めようとする声が耳に響いた。 『生きろ!』 そして、彼の声もまた、頭に響いた。 熱い、両目が熱い。 ギアスの呪いが、この目を焼こうとしているようだった。 『生きろ!』 『生きろ!』 『生きろ!』 呪いの言葉が、願いが、頭のなかに響き渡り、意識を奪われそうになる。 ギアスの声に、意識が飲み込まれてしまう。 飲み込まれたら、終わりだ。 だから。 「煩い!邪魔をするな!!俺を生かしたいなら!俺の目を返せ!」 俺が生き残るには、この両目が必要なんだ!! 俺に、光を返してくれ!! その魂からの叫びは、無数の銃声にかき消された。 |